群造形とコンテクスト 「千葉文化の森」にみる大髙正人のコンテクストへの眼差し(シンポジウム「戦後昭和の建築の地域性」寄稿論文)

少し前になりますが、2022年3月2日に日本建築学会関東支部研究発表会の一環として関東支部建築歴史・意匠研究専門委員会主催で開催したシンポジウム「戦後昭和の建築の地域性」の資料集に寄稿しました論文「群造形とコンテクスト  「千葉文化の森」にみる大髙正人のコンテクストへの眼差し」の内容を掲載します(図版の掲載は控えるものとしました)

-----------------------------------------

「モダニズム建築」と呼ばれて、戦後昭和の日本に広く浸透した建築に「地域性」が見出し得るかを主旨に開催するのが今回のシンポジウムである。ここでいう「地域性」には広範な捉え方があると考えられ、その多様さが議論を経て浮き彫りになることを期待したい。

こうした「地域性」の1つには、風土的性格が挙げられるであろうが(これも気候、文化、歴史など多岐にわたる)、これを局所にまで絞れば、敷地の特性を活かした建築、一般にコンテクスト(コンテクスチュアリズム)と呼ぶものを加味した建築にも(狭義の)「地域性」がみられることになるだろう。


日本でコンテクストの概念が広まったのは1970年代に入ってからで、特にポストモダニズムの潮流と関連する形で1980年代に定着したという1)。これを先行すると考えられるものが、筆者が保存活用要望書2)に関与し、保存活用に向けた活動を続けている千葉県立中央図書館(大髙正人・木村俊彦設計 1968年)に千葉県文化会館・聖賢堂(大髙正人・木村俊彦設計 1967年)と千葉市立郷土博物館(通称:千葉城、桑田昭設計 1967年)を加えた一連の文教建築群からなる「千葉文化の森」である。
「千葉文化の森」は、県庁や県警本部、地方裁判所などが建つ官庁街に近い亥鼻山と呼ぶ丘陵に造成された。亥鼻山は、豪族の千葉氏が平安時代末期に居城を構えた「千葉市発祥の地」として知られる旧跡である。戦前には、北側に亥鼻公園(市有地)、南側の大部分に千葉師範学校(現・千葉大学教育学部、国有地)が置かれ、千葉大学の西千葉キャンパス移転を契機に県有地となった経緯から、県(多目的ホール、結婚式場、図書館)と市(郷土博物館)のそれぞれの施設が併設されている3)。県・市の首長と職員による「ゐのはな公園文化の森造成委員会」4)を組織して計画を進めたが、建築事業は県と市が別々で遂行し、連携することはなかったというのが実態であった5)

前川國男建築設計事務所在籍時に担当した東京文化会館(1961年)にて、上野公園のアーバンデザインまで提案しながら実現できなかった経緯もあり、「江戸のかたきは取れた」6)と大髙正人が語った「千葉文化の森」は、最初に設計の委嘱を受けた千葉県文化会館・聖賢堂7)を東側山腹に配して、鉄道駅や官庁街など中心市街に近い西麓に千葉県立中央図書館を並べている。これらはメタボリズム・グループで槇文彦と協力して提案した「群造形(グループフォーム)」(1960年)を理論的背景としたものであり、具体的には「機械的なスペースと人間的なスペースを分離する提案」8)に基づき、車道を亥鼻山の外周に巡らせて駐車場を各施設脇に分散配置し、山腹には建築相互を繋ぐエスプラナード(遊歩道)を敷いて歩車分離を実践したものであった。
大髙が「千葉文化の森」で目指したのは「道路も公園も施設も全体として一つの環境を構成し、都市的な機能は一体となって演出され、建築と土木と造園が一つの目標に向かって統合されている」姿であり、これを「環境建築」と表現した9)。この「環境建築」こそ、今日にいうコンテクストと同義と見做せるものといえるだろう10)
「千葉文化の森」の計画にあたって「環境建築」とするための具体的な設計手法について大髙は述べていないが、大髙建築設計事務所草創期の所員で千葉県文化会館を担当した増山敏夫によれば、「大きなエスキース模型を油土で作り、等高線を読み、1,800人の大オーディトリアムを緩やかに上る地形に沿って馴染ませ」11)るように計画したといい、亥鼻山の地形を丁寧に建築に活かしており、このことは続く千葉県立中央図書館でも、傾斜地の敷地特性より建築内外に高低差をもって複層的に巡らせたエスプラナードを企図していること12)に共通する姿勢が読み取れる。
 
ここでコンテクストという概念形成の系譜を見ておきたい13)。コンテクストの概念は、アメリカの建築界で形成されたといい、1950年にロバート・ヴェンチューリがまとめた修士論文「建築の構成におけるコンテクスト」が原初とされる。
1960年代になってからは、コンテクストは環境の物理的形態を意味するようになり、クリストファー・アレグザンダーが『形の合成に関するノート』(1964年)で形とコンテクストを適合させることの意義を説き、設計手法として理論化する動向が生じたのもこの時期にあたる。
コンテクスト(コンテクスチュアリズム)を明確に規定したのは、コーネル大学アーバンデザイン・スタジオにてコーリン・ロウに学んだトム・シュマッハーの「コンテクスチュアリズム - 都市の理想形とその変形について」14)(1971年)であった。ここでは依然として、コンテクストは環境の物理的形態を意味していて、これを「物理的コンテクスト」と呼び、伝統的、知覚的、社会的などの底流するイメージを「文化的コンテクスト」として定義づけてコンテクストの概念を補完したのが、シュマッハーと同じくコーリン・ロウに学んだスチュアート・コーエンによる「物理的コンテクスト/文化的コンテクスト」15) (1974年)であった。これ以降、コンテクストは広く定着するようになったといい、ほどなく日本にも波及したことは上述してきた通りである。

こうしたコンテクストの概念形成の系譜を照らすと、「千葉文化の森」で大髙が実践した「環境建築」は「物理的コンテクスト」に留まる範囲での実践といえ、「群造形」の形態と亥鼻山の地形が適合した姿はアレグザンダーの理論と同調するものとも映り、総じてコンテクストを取り巻く1960年代後半の時代様相と符合している。
ここに群造形とコンテクストの強い親和性を明らかに読み取れるわけだが、「千葉文化の森」に企図した大髙の設計意図はどう映るものだったのだろうか。そのことを窺い知れるものとして、山本学治が千葉県立中央図書館に次のように寄せていることに注目できる。

神代雄一郎が述べているように(新建築1967-5)ぼくもこれを、AU [筆者補足 A:Art and Architecture、U:Urbanism を指し、大髙は P:Prefabrication と合わせて、PAUと呼んでこれらの統合化を目指した] の総合とは考えない.文化の森は,坂出の人人土地と違って,既成の市街地への積極的な働きかけを持っていないからである.けれども,与えられた敷地に配置された建築群の計画としては,地形にふさわしくととのえられた建物やプラザが庭の配置また人と車を分離した円滑な道路計画など,機能的にも空間的にもよく考えられていると思う.
山本学治「豊かな可能性を秘めたシステム」16)

これは大髙が企図していた通りと言ってよく、山本は「物理的コンテクスト」の文脈で批評を述べていることが明白である。さらに山本も挙げる神代雄一郎は、これに遡り千葉県文化会館・聖賢堂でこのように寄せている。

だが,大高さんの年令や気質から考えて,彼が停滞に甘んじているとは思えないから,この設計は相当の苦しみの末のもので,結局新しさを求める気持が,デコラティブなディテールに固定していったものだと考えられる.たしかにずい分とゆたかである.それは決して悪いことではない.だが同年輩の建築家が見たらば,これを歓迎すべき傾向とは思わないだろう.こうなってしまった原因としては,やはりわたしが真先に述べたところの,建築家の文化に対する考え,日本文化なり,東京駅に近接したこうした地域の文化のあり方,そうしたものに対する思考が浅くて,それが設計の発想に,力にならなかったことにあるだろう.おなじ森の中に,聖賢堂があり,郷土館がある.工場地帯からは煙が送られてくる.日本現代文化を考えるにはうってつけの条件がそろっているというのに.
神代雄一郎「文化会館と文化論」17)

神代に至っては、「文化的コンテクスト」の文脈で「千葉文化の森」を批評しており、前出のコンテクストの概念形成の系譜から見れば、その先見性に驚かされる。
ここで思い浮かぶのが、丹下健三の「大東亜建設記念造営計画」設計競技案(1942年 図4)である。管見では、日本の近現代建築でコンテクストに通底する理念を初めて示した建築作品とみられるものである。これは大東亜共栄圏の確立の表象となる記念造営計画の提案を求めた建築学会主催の設計競技で、大東亜共栄圏内に位置さえしていれば、規模や施設内容は自由という、いわゆるアイディアコンペであった18)。1等に選出された丹下案は「大東亜道路を主軸とした記念造営計畫 主として大東亜建設忠霊神域計畫」と題して、皇居と富士山を道路と鉄道で繋ぎ、富士山東麓に護国神社を中心にした忠霊のための神域を形成するという国土計画ともいえる壮大なものであったが19)、ここに歴史と文化の象徴として皇居と富士山を選んでいることに「文化的コンテクスト」が底流する設計姿勢を汲み取れる。こうした軸線に基づく設計手法は、後に広島平和記念公園(1955年)で、原爆ドーム・慰霊碑・平和記念資料館を連ねる都市軸を計画していることでも共通しており20)、これが他の建築家に影響を及ぼしたこともよく知られる21)。これを思えば、先の神代の視点もまた、当時の日本建築界において突飛なものでなかったこともうかがわれるところだろう。
日本におけるコンテクストの概念は「文化的コンテクスト」に端緒が求められ、早期から概念として浸透していた可能性にまで迫ったが、本稿における当初の趣意を超えて、いささか時代を遡り過ぎてしまったようである。考究の余地を残すと表明して、今後も思索を続けていくものとしたい。

1)秋元馨:コンテクスト論の系譜(その4) ~1960‐80年代日本を中心として~ コンテクスチュアリズムの建築形態と設計方法に関する研究、日本建築学会大会学術講演梗概集、1995 
2)千葉県立中央図書館の保存活用に関する要望書 建学発2019-第0013号、2019
3)藤木竜也:千葉県行政の動向よりみた「千葉文化の森」の計画・建設の経緯について、日本建築学会大会学術講演梗概集、2020にて詳述してきた
4)「千葉文化の森」は当初「ゐのはな公園文化の森」と呼称されて計画が進められていたことによる
5)桑田昭氏へのヒアリングに基づく(2020年11月13日 於:桑田建築設計事務所)
6)大髙正人ほか編:メタボリズムとメタボリストたち、美術出版社、2005、p.50
7)当初は県立博物館が計画されていたが、東京厚生年金会館(1961年)を範として、千葉県知事・友納武人の指示で結婚式場へと変更になった
8)建築 第6号、1961.2 蓑原敬ほか:建築家 大髙正人の仕事、エクスナレッジ、2014、p.111収載
9)42年度学会賞受賞作品 千葉県文化会館、建築雑誌 1002号、1968.10
10)前掲注1 コンテクスト論の系譜(その4) 1960年代にはコンテクストに類似するものとして「環境」の概念がみられることにふれられている
11)前掲注8 建築家 大髙正人の仕事、p.117
12)前掲注2 千葉県立中央図書館の保存活用に関する要望書に付された「千葉県立中央図書館についての見解」に詳しい
13)コンテクストの概念形成の系譜については 秋元馨:1960年代および70年代前期アメリカ建築思潮におけるコンテクスト概念 -現代建築におけるコンテクスチュアリズムの研究 その1-、日本建築学会計画系論文集、第504号、1998 ならびに 秋元馨:1970年代後期および80年代アメリカ建築思潮におけるコンテクスト概念 -現代建築におけるコンテクスチュアリズムの研究 その2-、日本建築学会計画系論文集、第511号、1998 に依った
14)八束はじめ編著:建築の文脈・都市の文脈 -現代をうごかす新たな潮流、彰国社、1979、pp.132-153収載(八束はじめ訳)
15)前掲注14 建築の文脈・都市の文脈 -現代をうごかす新たな潮流、pp.99-131収載(後藤哲男訳)
16)山本学治:豊かな可能性を秘めたシステム、新建築、1968.10
17)神代雄一郎:文化会館と文化論、新建築、1967.5
18)會告、建築雑誌 687号、1942.6
19)競技設計當選圖案、建築雑誌 693号、1942.12 丹下健三の「大東亜建設記念造営計画」設計競技案については、丹下健三、藤森照信:丹下健三、新建築社、2002、pp.78-91ならびに 真木利江:丹下健三による大東亜建設記念営造計画のランドスケープデザイン、日本建築学会大会学術講演梗概集、2019にて詳述されている
20)苅谷哲朗:丹下健三の都市軸構想と階層構造法に関する考察 丹下健三の都市デザイン その1、日本建築学会計画系論文集、第79巻第696号、2014でも同様の指摘がなされている
21)前掲注20 丹下健三、p.140 池田武邦と菊竹清訓が丹下の設計競技案に自らの建築設計に対する姿勢を根本から見直す必要に迫られた強い衝撃を受けたエピソードがふれられている 

コメント