千葉県行政の動向よりみた「千葉文化の森」の計画・建設の経緯について(2020年日本建築学会大会発表論文)

2020年日本建築学会大会で口頭発表を予定していた論文「千葉県行政の動向よりみた「千葉文化の森」の計画・建設の経緯について」の内容を掲載します。

 1.はじめに

 1960 年代後半の千葉において、その官庁街に近い亥鼻山と呼ぶ丘陵に「千葉文化の森」が実現した。建築家・大髙正人(1923-2010)が、メタボリズム・グループで槇文彦と提案した群造形(グループフォーム)の理念の下に歩車分離による全体計画を行い、これと共に千葉県文化会館・聖賢堂(1967 年)、千葉県立中央図書館(1968 年)を設計した。これらは構造家・木村俊彦との協働によるPC・PS を用いた革新的な構造形式の採用もあり代表作に数えられ、特に建築的な特性から多くが述べられてきた1)。一方で「千葉文化の森」ないしここに建つ建築群について、どのような経緯で計画され、どうして大髙に委嘱されたのかというような県行政の動向より論じられたことはなかった。そこで本稿は、主に千葉県立中央図書館所蔵の郷土文献を用い、その他関係文献も援用しつつ、「千葉文化の森」の計画と建設の推移についてひも解くものである。


2.「千葉文化の森」の計画推移

 千葉県立中央図書館所蔵の郷土文献より「千葉文化の森」とその文教施設の計画・建設の推移を(表1)に整理した。後に「千葉文化の森」に至る端緒は、1961(昭和36)年2 月に検討が始められ、翌1962(昭和37)年7 月に策定された「千葉県長期計画」に遡る。ここに「県民会館」として文化ホールの設置が明記されているが、当初は県庁近くの官庁街に設ける予定であったという2)。一方、図書館は「拡充」という表現にとどまり、文教施設を集約させる方針は認められない。「千葉文化の森」が造成される亥鼻山にいち早く建設が予定されたのが、千葉市立郷土博物館で1961(昭和36)年4 月に計画が発表され、6 月には千葉市長・宮内三朗の意向で天守閣の外観を模すことが決まっている。これは亥鼻山(計62,181.9 ㎡)に市有地のゐのはな公園(17,321.7 ㎡)があったためで、これと共に国有地の千葉大学教育学部、同附属小・中学校(42,187.2㎡)と県有地の護国神社(2,673 ㎡)があり、土地所管の関係で県施設を置くことが適わなかったことによる3)

 「千葉県長期計画」策定後ほどなく「千葉文化の森」に至る二つの契機が生じている。それが県立図書館(1934年,渡辺仁設計)の解体決定(1962 年8 月)と千葉大学教育学部の西千葉キャンパスへの移転である。県立図書館の新築建替は次章で詳述するので、まず亥鼻山の国有地払下を述べるが、交渉は長期に亘り難航したようで、最終的に附属小学校校舎・体育館、大学寄宿舎、大学会館・学生食堂等を計3 億円の県負担で建設することで調整がつき4)、1964(昭和39)年9 月に「千葉文化の森」造成計画が県議会で議決され、実現に向けて進められることとなった。

 間もなく大髙正人(大髙建築設計事務所)に設計業務委嘱(特命発注)がなされているが、その契約対象はあくまで千葉県文化会館の設計監理であった。前出の「千葉県長期計画」(1962 年)で計17 名の顧問を置いており、ここに建設省計画局計画官・下河辺淳(1923-2016)が名を連ねていた5)。下河辺は、メタボリズム・グループの活動とも接点があり、特に大髙とは同年の生まれで、かつ東京大学の同期で親しい間柄であり6)、その推挙があったことを思わせる。これは独立して間もない大髙を支援するという感情もあったのかもしれないが、前川國男の下で東京文化会館(1961 年)のチーフを務めた実績と経験が強く後押しするものであったことは想像に難くない。

 「千葉文化の森」は1965(昭和40)年2 月に県・市の首長と職員で構成する委員会を組織して造成事業計画を検討し、大髙が「敷地のある千葉大学教育学部の跡地の山全体を計画させていただくよう八方お願いし、県からOK が出て」7)というように全体計画も担当する運びになった。この基本計画を5 月にまとめ、これが基となって7 月に計画案策定に及び、また並行して設計を進めていた千葉県文化会館も8 月に基本設計が完了8)して10 月に起工した。

 「千葉文化の森」配置計画案(図1)は、車道・駐車場ならびにエスプラナード・園路の歩車分離に基づく動線計画が形づくられて、ほぼ実施案に近いものとなっているが、文化会館の北東に県立博物館が計画されていたことは明らかな相違である。これは東京厚生年金会館(日建設計工務,1961 年,現存せず)が併設された結婚式場で収益を得てホールの赤字を補っていたことに範を取って、千葉県知事・友納武人の指示で計画が変更となったもので、それにより設けられたのが現在の聖賢堂(結婚式場)である9)。聖賢堂は文化会館に遅れて1966(昭和41)年9 月に起工し、文化会館と共に戸田建設の施工により1967(昭和42)年3月に竣工した。なお、千葉市立郷土博物館も設計・建設が進められており、桑田昭(桑田建築設計事務所)の設計、大成建設の施工で1967(昭和42)年4 月に竣工している。


3.千葉県立中央図書館の計画・建設の推移

 (表1)には千葉県立中央図書館の計画・建設に関わる事項が多く、他施設に比べて計画・建設の推移が詳細に捉えられることから別に章立てて述べる。県立図書館の解体決定(1962 年8 月)が「千葉文化の森」の契機になったことを上述してきたが、「千葉県長期計画」に県立図書館は「拡充」とされただけで具体的な計画や構想はなかった。この後1963(昭和38)年5 月に館内で「図書館建築の際の問題点」のレポートがまとめられて問題提起がなされ、1964(昭和39)年度の全国県立図書館調査を経て11)、図書館職員で建築委員会が組織された。1965(昭和40)年度に15 回に及ぶ委員会を開催し12)、策定した基本案の予算補正を経て1966(昭和41)年9 月に県議会で新築が議決された。ほどなく大髙正人(大髙建築設計事務所)に設計が委嘱されたが、「千葉文化の森」全体を計画していたことから当然の成り行きといえ、実際に業務委嘱契約を結ぶ前に設計に着手している13)。基本設計は1967(昭和42)年1月にまとまり14)、文化会館と同じ戸田建設の施工となった(2 月24 日入札)。3 月31 日に着工し、4 月上旬に整地、下旬より杭打、そして根伐と順次進められ、6 月から10月まで書庫等の現場打ちRC 工事が行われた。並行して7 月よりPC 柱・梁の製造に入り、これが組み立てられる閲覧室の基礎工事を経て(10 月)、11 月中旬より建方に着手した。PC 柱・梁製造の遅れから1968(昭和43)年3 月に及んで躯体建方が完了し、内外装工事・外構工事を経て、3 ヶ月の工事延期をもって6 月30 日に竣工を迎えた。


表1 「千葉文化の森」の計画・建設の推移

[分類] 
森:千葉文化の森  文:千葉県文化会館  図:千葉県立中央図書館  郷:千葉市立郷土博物館


[出典]
①千葉県総務部審議室:千葉県長期計画書 1962
②財団法人千葉県文化会館:千葉文化の森 1971
③千葉県立中央図書館編:千葉文化 No.157 1962.3
④千葉県立中央図書館編:千葉文化 No.161 1964.10
⑤正木秀夫:千葉県立中央図書館落成・開館 図書館雑誌 Vol.63No.3 日本図書館協会 1969.3
⑥千葉県立中央図書館編:千葉県立中央図書館年報 昭和40 年度 1966
⑦千葉県企画部広報県民課:千葉県文化会館 20 年のあゆみ 1962
⑧千葉県立中央図書館編:千葉県立中央図書館年報 昭和41 年度 1967
⑨千葉県立中央図書館編:千葉県立中央図書館年報 昭和42 年度 1969

図1 「千葉文化の森」配置計画案 (方位表示は筆者による)10)

1)蓑原敬ほか:建築家 大髙正人の仕事,エクスナレッジ,2014 など
2)財団法人千葉県文化会館:千葉文化の森,1971,p.52 によれば、自治会館のあった敷地に農業団体を中心とする産業会館を併設して建てる予定であった。
3)-4)千葉県企画部広報県民課:千葉県文化会館 20 年のあゆみ,1962 pp.2,11
5)千葉県総務部審議室:千葉県長期計画書,1962,p.263 このほか建築関係者に小林政一(千葉大学学長)が見られる。
6)レム・コールハースほか:プロジェクト・ジャパン メタボリズムは語る…,平凡社,2012,p.649
7)大髙正人ほか編:メタボリズムとメタボリストたち,美術出版社,2005,p.50
8)大髙建築設計事務所:千葉県文化会館新築工事図面
9)前掲注3 千葉県文化会館 20 年のあゆみ,pp.179,198
10)前掲注2 千葉文化の森,p.54 計画当初「ゐのはな公園文化の森」と呼ばれたが、本稿では混乱を避けるため「千葉文化の森」で統一する。
11)正木秀夫:千葉県立中央図書館落成・開館,図書館雑誌 Vol.63,No.3 収載,日本図書館協会,1969.3,p.30
12)千葉県立中央図書館編:千葉県立中央図書館年報 昭和40 年度,1966 pp.16-17 に各回の議論内容が記録されている。なお、1966(昭和41)年にも県議会の議決内容報告で1 回のみ委員会が開かれている。
13)-14)デザインの展開 千葉県立中央図書館,建築,97 号,中外出版,1968.10 p.20 同記事では年記が1 年後年にずれた誤った表記がなされている。

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